笠原先生 あんなこと こんなこと 2
昭和63年3月、笠原先生は宮沢小学校をご退職されました。引き続きご指導をいただけないものかとお聞きしたところ快諾して下さいました。
それから毎月1回「土曜会」として20年もの間、笠原先生は私たちを導いて下さいました。
その土曜会でお聞きした先生と大内順男(じゅんなん)先生との出会いのお話です。
笠原先生が大事そうに一冊の古い綴りを見せて下さいました。まだ幼さの残る絵や習字、作文が何枚も重なり、丁寧にこよりで綴じられているものでした。
「私の尋常小学校1年生担任の大内順男先生は、一人ひとりの作品をご自分でこよりを作り、
このようにまとめられて修了式で手渡して下さったんだ。」
と、笠原先生は話し始めました。
「大内先生は、教科書を全部暗唱・暗写させるくらい1年生に取り組ませた。私は負担に感じたことも無く、60才になった今でも全て暗唱・暗写できるというのは先生に精魂込めて教えてもらったからだとありがたく思っている。
67人の学級だったが、朝は子供たちより早く教室にいて迎えて下さった。一人一人の筆箱を見て鉛筆を削ってくれたり、ボール紙で鉛筆の尖った先を書きやすいようにこすってくれたり、教科書には丁寧におり癖をつけてくれたりした。分け隔てなく全員に接してくれた。」
「大内先生について芦田先生は、『私の畏敬する同志で尋一の担任となった宮城県玉造郡岩出山小大内順男君始め(他4名の名を挙げ)このように頑張っている人に頼みたいことは、1人も劣等児を出さないようにしてもらうことだ。』と書いている。当時は、全国に30万学級があり1学級に1人劣等児を出すと30万人の劣等児が出来てしまうので、1人も出すなと述べている。」
また、こんな話もありました。
「入学式の氏名点呼で大内先生に『かさはらしょうじ君』と呼ばれ、きかん坊の私は返事をしなかった。式終了後家族が『しょうしです。』と謝りながら話していた。」
その10年余り後、笠原先生が宮城師範を卒業され、昭和23年3月岩出山小学校に初赴任された時の校長先生が大内順男先生だったそうです。
人の縁って不思議なものだなとしみじみとお話しされました。