…… 小学校の国語の授業を考える ……
落 語 に 学 ぶ
いずみ会を始められた鈴木佑治先生は、小学校教師は寄席に通って学ぶことを勧めました。
その意味を、私は「話芸の妙味を味わい授業に活かすことだ」と考えていました。
ところが、「どこからお話ししましょうか」 柳家小三治自伝
岩波書店(2019.12.17 初版 2020.1.24 第2刷)を読んで、奥が深いことを学びました。
映画 『野菊の如き君なりき』 に関わって(p30より)
やっぱり、またそこでも、師匠・五代目柳家小さんから言われた「心で演じるもので、声や表情で演じるもんじゃない」っていうことが、クローズアップされてきます。
吉川英治 『宮本武蔵』の本阿弥光悦とその母が野だてをしているところに武蔵が登場する場面 に関わって(p37より)
お茶をどうぞって言われる。私は不調法者で茶の飲み方もわかりませんって言うと、そのお母さんが「お茶は心でいただくもので、作法はいりません」と。そんなところに感激したものです。私は「心よりは、作法をちゃんとしろ」って、父親からも母親からも言われてきましたから。こういうときにもただ心が必要なのか、作法は二の次、三の次だっていう、その奥の深さがすごいなあと思いました。小さん師匠に入門 (p67より)
『粗忽長屋』という噺は、私がやっているのを師匠が楽屋で聞いていたんでしょうかねえ。「お前は最初からおしまいまで、全部受けようとしているな。ちがうぞ。あれじゃ、お客が疲れちゃう」って言われました。そいうことが、師匠の私に対する教えだったんでしょうか。落語はひとつも教えてくれませんでしたけど。
でも、おれの芸は盗めって言ってくれた。だから、盗んでいいかと思ってやってました。…若手の勉強会で『うどんや』をプログラムに出してらゲストの師匠に…
「これ、どこでおぼえたんだ」「師匠のを聞いておぼえました」「馬鹿野郎。こんなものを前座のときにおぼえるやつがあるかい」って言われた。…そうか、前座は前座としての噺、二ツ目は二ツ目としての噺、真打は真打の噺という格付けっていうか、自分の力に沿った噺をやらなきゃいけないんだなってことも、教わりました。おわりに(p208より)
私は職人が好きなんですね。職人は自分がどうすればいいか、どうしたらいいかをちゃんと頭に持っているでしょう? 抽象的、一般的じゃなくて、具体的、自分にとって、というところがある。こうやっておけば世の中は通用するとかみんなが感心するとか、そんなことじゃあなくて、自分はどうしたいか。そこなんだね。
芦田恵之助先生は、1951(昭和26)年12月9日にお亡くなりました。
今年は、没後70年に当たります。
第138回国語教壇修養会は、それを記念して10月30日に計画しました。
ところが、コロナ感染の状況を受けて延期することになりました。
来年の7月27、28日の2日間と決まりました。
詳細は、今後詰めることになります。
今年も、本ページをお読みいただきありがとうございました。
よいお年をお迎えください。
12月 担当 T.K
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自分はどうしたいのかという考えを持つまで、師匠の真似をしたり、技を盗んだりしながら修行を積んで、自分の味を出せるのですね。教式にも通じるのかもしれません。これで良いということはないのかもしれません。学ぶことばかりです。