令和3年6月15日(月)~6月21日(日) 第11週

…… 小学校の国語の授業を考える ……
… … 皆 読 ・ 皆 書 ・ 皆 話 ・ 皆 綴 … …

これがむずかしいような国語教育が、我が国にあってはなりません。
教育を受けないものなら知らず、苟も義務教育をうけたものが、
皆読・皆書・皆話・皆綴が出来ないとしたら、
小学校教育者は相当責任を感じてよいと思います。
その原因を児童の環境に帰したり、
児童の天賦に帰したりして、淡き安心を貪るようなことは、
小学教師に決してあってはならないことです。
是は是、非は非、押すべきは押し、改むべきは改め、
堂々大道を闇歩する底の丈夫的覚悟がなくてはなりません。
国語教育が興隆しないで何の国民教育だと思います。
        (昭和十年五月八日 於高松大松閣) 

これは芦田先生の御著書 「 国語教育易行道 」 の中の一節です。
易行とは易しい行いということで、先生にとっても子どもにとっても易しい行いです。
易行の反対が難行。難行苦行ですね。
難しい行い、苦しい行いということで、この御本を書かれたころ、
芦田先生は全国教壇行脚を行っており、そこで難行苦行を見られ、
全国の先生方や子どもたちが難行苦行に疲弊している様子を目の当たりにして、
この御本を書かれたのです。
お釈迦様も2500年の昔、
6年間の苦行の後、苦行によっても悟りは開かれないと、
苦行に見切りをつけたそうです。
では、「難行苦行を強いているのは何か」と先生がお考えになったのは「結果主義」ということです。
今でいうとスキルということでしょうか。
「国語の力」という言葉を聞くと、皆さんはどのようなことを思われるでしょうか。
文章を読む力とは、そこに書かれていることを読み取る力、あるいは書きたいことを文字で書くこと、
そのための「かなや漢字」を適切に書けることと思われるのではないでしょうか。
芦田先生の「国語の力」は、読もうとする意欲、書こうとする意欲、話そうとする意欲のように思えてなりません。
この意欲を破壊する活動が全国の学校で行われている様子を目の当たりにされ、
易行の道を推進しなければならない、しかもすぐに、とその端緒としてこの御本を書かれたようです。 
        恵雨語録の中には、次のような文章もあります。
               優 中 劣 の 児 童
天分十の者と八の者と六の者と四の者があると致しましょう。
その各自の天分を十八六四そのままに育てたとしたら、四者悉く天分を全うしたものでしょう。
結果に於いては四六八十と差はあっても、全き発達を遂げたという点からいえば平等です。
差別そのままを平等と見るというのは、この事でございます。
沖垣君がいつか
  「幾度あなたの講義をきいても、劣等児に言及なさらないことは一度もありません。
    あなた程劣等児のために深い理解と救済しようとする熱を持っている方は少ないと思います。」
と言ってくれた事がありました。
私は、私が劣等児であって、幾多追憶の資料を持っていますから自ら同病相憐むの情もこもることだろうと思います。

 (注 沖垣 ⇒ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A8%BD%E5%B8%82%E7%AB%8B%E7%B7%91%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1)

 「皆読・皆書」の言葉の中には、その書かれた時代性によることもありますが、
教育者が目指すところが書かれており、会として大事にしていきたいと思っております。
(大阪の会員 T Y  投稿)
今週は、大阪の会員からの投稿です。ご意見・ご感想をお寄せください。 (LINE もご活用ください)  
第138回国語教壇修養会で「授業を通して皆読・皆書・皆話・皆綴の具体的な姿」を観ていただけるようにしたいですね。
それをシンポジウ等の中で示していきたいですね。
「共に育つ」(理念)「具体的な方法」(技術)が教式には含まれています。
その伝承には教壇修養会が必要だといずみ会は考え、1948年から138回も続いているのですね。
(東京の会員 t K)

そういう発信をし続けていただけることに感謝いたします。
(宮城の会員 m A)

今日はMK先生の「風切るつばさ」二次指導の授業を参観しました。
静かな雰囲気の中でどの子もしっかり読み、書き、考える姿がありました。
昨日より多くの子供達が家で読んできたと答え、学ぶ意欲がみられました。
教師の深い教材研究と一人一人を大切にする教育的配慮が随所にありました。
この芦田式教式の授業を多くの方にみていただきたいと思いました。
(岩手の会員 m K)   15日のLINEより

NHKの100分de名著を見ていたのですが、今月はレイ・ブラッドベリの華氏451度です。
その第3回目で、何故本が燃やされるようになったのかの話です。
社会の加速化で、本が読まれなくなったということです。
本が要約され、概要、短縮、抄録、省略、そして捨てられる。
単純化に単純化を重ねるという言葉もありました。

教式の単純化は
要約ではなく、概要ではなく、短縮でもなく、抄録でもなく、
粋、一番考えたいところ。
(大阪の会員 T Y)

本離れの進む今、Yさんの話、考えさせられますね。
岩手のKさんの話、様子が浮かびました。
教科書会社どこでしょうか。
(島根の会員 m N)

「風切るつばさ」は、東書6年の6月教材です。
第136回、城星学園での国語教壇修養会のおり、城星学園のh K先生が授業してくださいました。
人間関係を考えさせるよい教材だと、私は感じました。
MK先生の報告を楽しみにしております。
(東京の会員 t K) 

風は吹いてきて、進むのを邪魔するもの。
それを刀でするように、切って更に前に進むこと。
風を切るものが、つばさ。

題に、前に進む感じがするね、と確認。
それを邪魔するものが、風。
「邪魔するな」と風を切るのが何?
つばさは、まるで何に思える?
切る道具といえば……
邪魔する風は何?
切り開いてどこへ行くの?

「題目に帰れ」の扱いかな?
(大阪の会員 TY)  16日 LINEより

教材読みました。
人間社会を思いました。
六年生の子どもたちの心に響く、生き方を考えさせるものですね。
報告が楽しみです。
K先生ありがとうございます。
(島根の会員 mN)

皆様、私の教壇に関心を寄せていただきありがとうございます。
昨日までの3日間は、授業で精一杯で、返信もできずにおりました。
「風切るつばさ」は、ヒマラヤ山脈を越えて飛ぶアネハヅルにとって、生きることの象徴と押さえました。
「仲間の死の責めを負わされて、飛ぶ力を失ったクルルに、カララが命をかけて寄り添い、救い出す話」と捉えて立案しました。
立案を教壇に具現化することの難しさを今回も痛感しております。
(宮城の会員 MK)

ずっと以前、アネハヅルがヒマラヤ山脈を越える観察記録をテレビで見ました。
山脈から吹き下ろす強風にあらがいながら、仲間たちと何度も何度も飛行を繰り返し、気流をつかんで山脈をインドへ越えていく、知恵と不屈の精神とに感動しました。
まさに生きることそのものですね。
(島根の会員 mN)

授業参観させてもらい、簡単に答えらる問いだけではなく、窮する発問やそれを待つ時間や補助発問が深い理解に繫がることを感じました。
発問の一つ一つが自分を見つめ、考えを深めることに繫がることを感じました。
難しいことを具体的に、簡単に思えることの中に深さを感じる 発問がありました。有難うございました。
(岩手の会員 mK)

「愚問愚答、愚問賢答、賢問愚答、賢問賢答」という言葉を思い出しました。
最も避けたいのは最初の愚問愚答で、ところが、これが一番多い。
自分も一度だけ、愚問賢答があったことを覚えています。
一度だけの愚問賢答は、発問の直後に子どもの様子を見て、ああこれは愚問だなと思った瞬間、ある女の子が手を挙げたので指名すると自分が思っていた以上の答えをしました。
そうか、そう読むのかと、これは賢答だな思った次第で、思わず頭が下がりました。
心の中では「ありがとう」の言葉でいっぱいでした。
それが一度だけあります。
皆さんもあるかな?
(大阪の会員 tY)   17日 LINEより

どんどんお話が進んでいて、びっくりです。
リモートは、ここのところ修養会に向けた会議が続いていますが、一段落したらぜひリモート研究会を開いて、話題に登っている工藤先生の授業について学ばせていただきたいです。
(東京の会員 sT)   19日 LINEより