芦田先生の「小学国語読本と教壇」より その4
「修行として教科書を読む」
・私は小学国語読本を一学年の国語教材と見ないで、永久に私の修養書と見たいと思う。
・国語は、思想交換の具である前に、真心からほとばしる第一義のものでなければならぬ。小学国語読本の巻の一(小学校国語教科書1年上巻)でも、これを第一義に読みとることが修行なしに出来ることだろうか。
・修行として小学国語読本を読むことが、私の祈願であり、安心の天地である。 全集第15巻(以下同じ) P.371
・私は小学国語読本の一の巻を手にし、何十回か読みぬいた。 P.386
○私は小学校1年生の国語教科書を何十回も読んだ経験はありません。芦田先生でさえも何十回も読んでお考えになったのですから、もっと読み抜かねばならないと思うのですが、読み抜くには修行を要するようです。機械的に読んでも苦行でしかありません。
・我が師(垣内先生)は常に説かれる。印刷面にそって表面一通りの意義を読みとらせる教授を叙述的機構、作者に随伴してその心持ちを読みとらせる教授を表現的機構、一語一句を手がかりとして、その奥にかがやく深い心を読みとらせる教授を象徴的機構とおっしゃる。三機構の教授は、ともに文の表面浅いところから、次第に深い所を読みとる、いわば段階のようなものを示されたのであるが、いかなる文でも、この三機構によって取り扱うべきものである。
・文である限り、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」でも、「コイ コイ シロ コイ」でも、三機構の取扱いが出来るのだ。
P.393 ※引用文は、一部抜粋・簡略化して表記しています。
○「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」を三機構でどのように取り扱えばよいのか。
芦田先生のお考えが、全集第15巻398ページから詳しく述べられています。ぜひ、ご一読ください。 サクラ読本取扱はこちらへ
岩手県 Masa.K
ご意見・感想、ご質問 コメント