芦田先生の「小学国語読本と教壇」より その3 「感想」と「発表」
<国語教育の第一義を見失ってはいないか>
国語教育は、ことばにこころを読む修行、こころをことばに綴る修行だと信じてほしい。この信のないところから、国語教育がいかにもあさましいものになりはてている。
全集第15巻 P.384
今の小学校には、信ぜざる方向に児童を駆ろうとしておることがかなりに多いようだ。故に熱がない。熱がなければ機械的に動くだけだ。動いている中に、人の子は横道にそれる。それで大切な教育時期を過ごしたものがどこに落ち着くかは、識者をまって知るべきことではない。事例はあまりにも山積している。
教材文を全て拡大コピーして、黒板に貼付し、教材解釈もしていない指導者が、字句を追うだけの質問をする。子どもたちは思い付きを発言する。指導者は一切の吟味もせずに、カラーペンで傍線を引くだけ。このような、発表合戦が横行しております。
(令和7年4月 現場を知る一教師より)
国語教育の姿は、「教材を師弟の中間において、互いに読みとったものを語り合うのだ」と考えたが至当であろう。児童に文字がなくて、読みとれないうちは、聴きとらせるのだ。聴きとれば、必ずその言葉の奥にかがやくものを感知する。
感想発表などはここをねらって進んでいるものだが、発表が──例の競争心利用の結果──主になって、貧弱な感想を長々と聞く様なことがしばしばある。発表よりも感想を確実に求めさせなければならぬ。おのれに響くものを把握せしめねばならぬ。こうなると、はしゃいだような教室の空気はなくなる。静かに考える児になる。学級には落ち着いた気風ができる。かくして第一義を語る国語教育が行われるかと思う。
全集第15巻 P.385
芦田先生が、これをお書きになったのは、昭和8年のはじめの頃のようです。まるで、現代の教室をご覧になったかのような問題意識をお持ちです。歴史はくり返しているのでしょうか。
岩手 Masa.K