芦田先生の「小学国語読本と教壇」より その2 「競争心」と「自制心」
放漫な競争心 人が一度、他に勝たんとて遠くを見ると、心は必ず脚下を離れる。そうした時には老若男女すべてあさましいものにかわる。絵を見せても、事を問うても、我勝ちに答える児がある。そのあさましい根性が、上級生まで延長しているのが斉答だ。
私が斉答を悪むのは、源を競争心に発し、自制なき姿にのびて、雷同不和に堕するからだ。よく聴くものでなければ、よく語るものではない。言語が語らざるべからざる第一義に立つことを忘れて、いたずらに他人の称賛を得んがためにするようになっては、末世末法だ。国語教育も何もあったものではない。競争心の整理をしないと、二三児のために、全級が掻き乱されてしまう。
※挙手をして、指名されてから答えることの根底にあるお考えと拝読しました。
自制心 尋常一年生にもおそろしい程の自制心がある。これにうまく培っている教師は、実に楽々と率いていく。どうにも飛び込みかねて、教訓や命令で彼等を率いようとすると、気ばかりもんでどうにもならぬ。…中略…自制心の覚醒、一学年には忘れられ勝ちのことであるから、ここに一見しておく。
一学年をあまりに幼弱と見る誤りから、児童の求むるものと教師の与えるものが一致しない。一年生の教授ほどすべてが押し付け勝ちなものはない。それがために、学習の気分を根底からこわしたり、不注意な子供にしてしまったりしている事実は決して少なくない。尋一の児童でも、仮字の筆順や発音の狂いをただされて満足しているものではない。彼も人の子だ。ことばの奥に光るこころを見せると、目をまるくして諦視する。この求めているものをこわさないように、仮名教授を進めたいと思う。
※「ことばの奥に光るこころを見せる」=教式が求める授業は、これであろうと思います。
全集第15巻 P.382~383
何年生であっても「競争心」ではなく「自制心」を培うことで率いなければなりません。私にも思い当たる節があります。自戒を込めて話題提供とさせていただきます。
岩手 Masa.K