芦田恵之助先生の「教壇行脚」より その3
(昭和8年)3月1日 2日 3日 4日、はじめて名古屋の教壇を踏んだ。1日は日新小学校、2日は高蔵小学校、3日は高田小学校、4日は筒井小学校。
よしこれを限りに、再び名古屋の教壇を踏むことが出来なくても、名古屋に現存する教壇以外に、私のような教壇の存することが明らかになれば、それで我が望みは足るのだ。取捨は人々の気々、一に律し難いとしても、児童の求むる心に培って、自学の根をふとらすことは、学説の如何、教法の如何を超越して、考えなければならぬことである。
私は全国大都市の教育が、とかく抹消にかかわって、本幹に培う重要操作を逸していることをかなしむ。……中略……教壇を生命とする初等教育者は、学説の新を追うよりも、各自の教室に一人の劣等児も作らないということが尊いことだ。 (全集22 P.283より抜粋)
東京と宮城の小学校で、平日に1日だけのミニ修養会をさせて頂いた。芦田教式による授業は聞いたことはあるが見たことはないと言われる。一日だけであっても、「児童の求むる心に培って、自学の根をふとらす」授業であれば、心ある教師は「おや?」と考えてくれるのではなかろうか。
昭和8年当時には「大都市の教育」の問題であった「抹消にかかわって、本幹に培う重要操作を逸している」状況は、今や全国的課題である。
いずみ会は、先達が身を以て示された「単純化・具体化」された教壇を継承する使命を持っている。
岩手 Masa.K