6月の話題 2

敬 師

 矢野橋村という南画家がいた。明治23年に生まれ、昭和40年に74歳で没した。
 18歳の時、砲兵工廠の職工となり、夜、自分の時間が持てるようになると、早速当時の大阪画壇の重鎮、南画派の永松春洋の門に入れてもらい、必死の努力を続けた。その甲斐あって進歩は目覚ましく、師匠の春洋も彼に目をかけて激励してくれた。ところが、思いがけない不幸な事故が起こった。矢野少年は、作業中のローラーに左手を巻き込まれ、その手を失ってしまったのである。驚いて、師の春洋が見舞いに行くと、橋村は少しもその事を悲しまず、

「先生、僕にとっては、かえってこれは幸せな出来事だと思っています。片腕になってしまえば、絵を描くよりほかにしようがありません。これは、絵に専念せよという神様のお告げに違いないと信じています」

と、目を輝かせて言った。
 その悲壮な決意と、それ以降の彼の精進には、周りの人達がいたく感動し、「矢野橋村後援会」を作って、彼を激励した。
 不撓不屈の努力を続けた彼の画技は素晴らしく進み、ついに南画の重鎮となって、幾多の大作を残したばかりではなく、大阪美術学校の校長となって、後輩の指導にあたり、不朽の功績をたてた。

         弟子 直原玉青

 矢野橋村が美術学校を開校した時に入学した玉青は、師を慕う心、篤く

「先生は、私を信頼できる弟子として、何の秘密もなく、全て心を開いて下さいました。私も弟子として懸命に尽くし、先生の芸術観を学んでおりました。今こうして一人前になったのも、矢野先生との出会いがあったからだと思っております」

と、師への熱い思いを語っている。これを、【師承】といって、画壇では尊重している。

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