本日の授業
毎年の国語教壇修養会での授業の後に、先達より本日の授業についてという一言を頂戴いたし
ます。その折に、私が経験し、考えたことを書きます。
まず、初めての作文の教壇の後に頂戴した評、安達先生より頂戴しました。批正で取り上げた
作文の心に関するお話でした。
「ここにも確かにその心が表れていますが、こちらを取り上げてみてはどうでしょうか。
よりはっきりとその気持ちが伝わるのではないでしょうか。」
という内容でした。
確かにその通りでした。作文を読むというのは、行間をいかに読み取るかにあると思うのです
が、それを、今初めて読んで、行間を読み切り、より効果的なことまでお話しできる。これを1
時間の授業を参観する中でなしとげるのですから舌を巻きます。
また、詩の授業の時には(2年生の「大きくなあれ」という詩です)「1の答えがここ、2の
答えはここ。では、3の答えはありませんね、なぜでしょう。」という投げかけでした。答えは、
「その答えは、ずっと時間が経ってから。だから、今はないのです。」でした。そう考えると、
詩がより深く、広く読めました。
私は「なぜ、ここに答えがないのか。」と考えた時、わかりきったことだからとやっつけまし
た。とんでもない。詩人がそんないいかげんなことばを使うものかと横っ面を張られた気がしま
した。これも安達先生の評です。以後、詩の言葉は注意深くと戒めて読んでいます。
こういうお話をさり気なく述べられる。これら授業への一言は、授業者のやった者勝ち、言葉
を貰った者勝ちと思ったことでした。
宮城 M.A