鈴木佑治先生(その1)
いずみ会の創始者、鈴木佑治先生は、昭和43年2月25日に享年67歳で逝去されました。ですから私たちは、鈴木先生から直接指導を頂くことはありませんでした。本会の先達が皆、敬愛して止まなかった鈴木佑治先生がどのようなお方であったのか、先達が書き残された文章をいくつか紹介して、今月の話題提供といたします。
「教容(きょうよう)」 明田川ヨリ 先生
昭和19年4月、杉並第八小学校に転任、それが、私の国語教壇修養会創始者鈴木佑治先生との御縁の始まりでした。
その後長い間先生のお近くで、公私ともに一方ならぬ御世話になりました。戦争中のこと、戦後のこと、語り尽くせないほどの思い出があります。
国語教壇修養会も初めの頃は年3回ありました。厳しい修業と楽しい集まりの会であったことは今と変わりありませんでした。百回を数える今日まで、よくも続いたものと感慨一入です。
鈴木先生は落語が好きで度々寄席へお出かけになったようです。そして私どもに面白い話をしてよく笑わせておいでになりました。落語の優れた話術を国語教壇に活かそうとされたお考えだったことが分かりました。
学校では毎年ほとんど同学年を担任しておりましたので職員室での席は何時も隣り、事務的な仕事を如何に能率よく片づけるかということをユーモアたっぷりの話しぶりで教えられ笑いころげながらもその通り、と感心したことも度々ありました。
教式の話をされる時は特に熱がこもり、教壇に立つ時の心得を一挙手一投足細かいところまで話されました。そのとき「教容」という言葉を使われたことが、今も心に焼きついております。
先生はあまりご壮健ではなかったようで、時々病気をなさいました。教壇に命を賭けておられたので、きっと無理を重ねられたためだろうと想像しております。
文字通り不肖の弟子の私、亡くなられてから20年余り後になって、先生の残された国語教壇修養会が国語教育の道に重大な使命を持っていると、いっそう深く思うようになりました。本当に有り難く、申し訳なく思っております。 (いずみ会百回記念誌より)
明田川先生は、国語教壇修養会に長く参加しておられました。寡黙な方で私は直接お話を伺うことがなかったのですが、今にして思えば、鈴木先生についてもっとお聞きすればよかったと悔やまれます。
宮城県 M.K